鎮守府とは、軍港に置かれた海軍の拠点のことをいいます。
明治時代、旧海軍は日本沿岸の海を5つの海軍区に区分し、そのうちの横須賀、呉、佐世保、舞鶴に鎮守府を設置して、各海軍区の防備、艦艇の建造・修理、兵器の製造、海軍病院、軍港水道等の施設の運営・監督を行いました。その中で舞鶴鎮守府は、日本海側唯一の拠点として1901年に開庁されました。
今年2021年は、開庁120年の節目の年にあたります。舞鶴観光協会では、舞鶴市や関係機関と共に、これを機会に、そこで培われてきた技術や知識、文化に今一度着目し、地域の観光魅力づくりに活用していきたいと考えます。
明治時代に入って、欧米列強に対抗する必要に迫られた日本は、国をあげて軍事力の強化に取り組みます。
中でも、隣国ロシアとの緊張が高まる中、日本海側にも海軍の拠点を整備することが期待され、位置や地形などの条件に優れた舞鶴が選ばれました。
古くから城下町として栄えた西舞鶴に対して、当時の東・中舞鶴は小さな漁村でしたが、鎮守府開庁に伴って状況は一変します。江戸時代に百戸足らずであった村は格子状に区割りされ、近代的な軍港都市に生まれ変わりました。ほかにも舞鶴では、造船施設の整備や鉄道の敷設、軍用水道施設の整備、軍需倉庫をはじめとする様々な用途の建築物の整備、要塞の建設などが進められました。
このような軍港都市の形成上の大きな特徴と独自性は、日本遺産として登録されています。
画像提供:大橋健二氏
1945年、終戦に伴い舞鶴にも米軍が進駐してきます。
しかし同年の内に接収が解かれ、一部自衛隊に受け継がれた施設を除いて、多くの軍事施設は地元に引き継がれることになります。水道施設は市民向けの水道となり、建物は市や民間に払い下げられるなど、その後の舞鶴の発展に大きな役割を果たします。
戦後75年以上が経過し、関連施設の中には老朽化して取り壊されたり、廃墟となっているものもありますが、土木施設など現役で使用されているものも少なくありません。今なお多数が残るれんが造の建築物の中には、赤れんがパークとして北近畿を代表する観光交流施設に生まれ変わった物もあります。
このように、軍港施設として整備された都市基盤や建物の多くが、現在の市民生活の中に生きていることが、舞鶴の大きな特徴といえます。
海軍からその後一般にも広がっていったといわれる「海軍食」。代表的なものとしては、例えば次のようなものがあります。
海軍軍医の高木兼寛が大日本帝国海軍の偏った栄養バランスの食事を改善するために作ったカレー。その伝統は、今でも海上自衛隊にも引き継がれています。
海軍舞鶴鎮守府初代司令長官の東郷平八郎が英国で食べたビーフシチューを再現しようと作らせたのが肉じゃがです。現在では各家庭の「おふくろの味」として定着しています。
長期航海中の船員達が悩まされていた壊血病の予防に柑橘類が効果があるとされ、水兵が愛飲した「レモネード」。それが訛り「ラムネ」として伝わったと言われています。
現在人気のタピオカは100年以上前から日本でも病人食として食べられており、牛乳との相性の良さも当時からすでに知られていました。
このたび、海軍舞鶴鎮守府開庁120年に合せて、記念ロゴマークを作成しました。関連事業にお使いになる場合は、著作権フリーとしますので、本ページよりご自由にダウンロードしてお使いください。ただし、ロゴマークの改変や一部分の使用は出来ませんので、ご了承ください。
※ロゴマークデザイン:コジマユイさん
舞鶴赤れんがパークでは、鎮守府開庁120年を記念して、イルミネーションやモニュメントを設置しています。
また、東舞鶴の駅前や商店街には、120年を記念したフラッグが設置されています。
海軍舞鶴鎮守府の設置に併せて整備された東舞鶴市街地の道は、京都市と同じ碁盤の目になっています。東西には軍艦の名前が付けられ、小さな道も入れると33箇所もあります。スマホアプリで当時の地図を頼りにぶらっと軍艦通りを巡るスタンプラリーに出かけませんか。
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