「岸壁の母」の歌とともに全国に引き揚げのまちとして知られる舞鶴。
昭和20年の終戦以来、66万人余人の引揚者と1万6千柱の遺骨を迎え入れてきました。
その歴史を残そうと、桟橋を平成6年に復元。
当時の喜びと悲しみのドラマがよみがえってくるようです。
昭和33年、最後の引揚船「白山丸」が舞鶴港に入港するまでの軌跡をたどる
昭和20年8月15日。ついに終戦を迎え、日本が復興へと新しい第一歩を歩み出した一方で、終戦後も、さらに過酷な重労働を強いられた人々がいました。旧満州をはじめとする中国、樺太、千島などに残された人々で、その数、兵隊350万人、民間人310万人のあわせておよそ660万人ともいわれていました。舞鶴港への引揚は、昭和20年10月、祖国をめざす人々を乗せて、引揚第一船「雲仙丸」により2100人の引揚者が入港したのを皮切りに、昭和22年に旧ソ連からの引き揚げがピークを迎え、約20万人が83隻の船で運ばれ舞鶴の地を踏みましたが、昭和25年、旧ソ連で捕虜となり極寒のシベリアで抑留されている人々は帰国がままならないまま、ソ連からの引揚が中断しました。引揚事業が再開された後は、舞鶴港だけが国内唯一の引揚港として、引き続き引揚者を受け入れました。昭和33年に最後の引揚船「白山丸」に乗って引揚者472人が日本の土を踏んでようやく舞鶴港でも引揚事業は完了。結局、最終的に舞鶴だけで66万余人もの引揚者を受け入れたことになり、終戦から13年。舞鶴は最後まで引揚者に手を差し伸べました。
平和への思いをいまに語り継ぐ引き揚げの聖地があります
終戦から25年を経た昭和45年、平和への願いを後世に伝えようと、舞鶴の引揚港を見下ろす丘の上に、引揚記念公園がつくられました。その他、平和を象徴するカリヨンの鐘が設置されています。また、昭和63年には舞鶴引揚記念館が完成。人々に平和の尊さを語り継ぐ場所として、平和への祈りを捧げる場所として今も多くの方が訪れています。
舞鶴引揚記念館
引き揚げの歴史を後世に伝えるため、多くの資料を展示している記念館。
お問い合わせ | 0773-68-0836 |
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港のまち舞鶴の原風景をたずねて
大和橋界隈
漁港や運河など、昔ながらの情緒ある漁師町
伊佐津川の河口。大和橋界隈は、舞鶴漁港を中心とした古くから海辺の風景を今に残す漁師町です。岩波稲荷神社を入り口に、河口に向かって両岸には水無月神社やかまぼこ工場、さらには映画「ニワトリはハダシだ」や映画「ぼくんち」のロケ地にもなった銭湯など「水辺の下町」ともいうべき、漁師町ならではの情緒豊かなまちなみが続きます。ゆったりした時の流れを感じながら、のんびりと、ぶらり散歩するのが楽しくなる大和橋界隈。運河のように街の中を船が行き交う姿は、この界隈ならではの風景です。
浦入遺跡
太古の歴史ロマンが眠る古代海辺遺跡
浦入遺跡は舞鶴湾口の東側に位置し、蒲入遺跡の出土品は、縄文時代からの海辺の人々の暮らしを今に伝える貴重な歴史遺産です。出土した約5.300年前の丸木舟は、縄文時代からすでに海の交通の要所として繁栄したことを証明しています。見つかった日本最古の船着き場やさまざまな縄文土器は、太古の海洋文化や古代人の息づかいに触れることができる貴重な文化財です。これらは、市政記念館にて展示しています。