舞鶴市は第二次世界大戦の終結後、13年間にわたり、66万人余の引揚者を迎え入れました。その引揚者とは、第二次世界大戦の敗戦にともない日本帝国が崩壊する中でソ連領等に抑留された軍人・民間人。その悲惨な抑留生活から、後世に記憶として残すことで決して繰り返さないという、平和への教訓があります。
海外にいた約660万人の日本人の引き揚げは、昭和20年(1945年)9月、米軍管区から開始されました。ソ連軍管区からの引き揚げは、昭和21年12月から始まりましたが、容易には進展しませんでした。国内各地に引揚港が設けられましたが、昭和25年以降は舞鶴港が国内唯一の引揚港となり、昭和33年の終了までに、延べ346隻の引揚船と約66万人の引揚者を受け入れました。
昭和63年に完成した引揚記念館。展示されている多くの貴重な資料は、訪れる人々に平和の尊さを語りかけています。
戦時中やシベリア抑留など、戦争が引き起こした悲劇や過酷な労苦の体験を後世に語り継ぎ、子供たちに平和の尊さを伝えてほしいとの願いで全国から様々な資料が寄せられ、その数は1万6千点を超えています。それらの一部はユネスコ世界記憶遺産に登録されています。
時代を象徴する印象的なモノクロ写真が両壁一面に。激動の昭和へと誘います。忘れてはならない、記憶への入り口です。
軍人を軍隊に招集するために発行された「臨時召集令状」で役場の兵事係の職員が届けることになっていました。召集令状が届くと3日〜1週間以内に指定された部隊に入隊しなければなりませんでした。
世界記憶遺産登録資料。シベリア抑留中に、白樺の皮、空き缶を加工したペン、煤を水に溶かしたインクで日々の思いを和歌にしたためたもの。収容所等での所持品検査をくぐり抜け、奇跡的に没収を免れました。
ラーゲリ(ロシア語で収容所)で配給されたわずかな黒パンを、手づくりの天秤で量りながら全員に均等に配分しています。少ない食料をめぐって仲間同士で争いごとを避けるための知恵でした。
体験者の回想記録画などをもとに収容所を再現しました。狭く寝心地のわるいベットに横になったり、かばんの中身や極寒を耐えた衣類にも触れることができます。
舞鶴では引揚者が入港するたびに市民こぞって心から歓迎し勇気づけました。一方、いまだ帰らぬ我が子・夫を待つ婦人の姿も見られ、いつしか「岸壁の母・妻」と呼ばれるようになりました。
スポット名 | 舞鶴引揚記念館 |
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住所 | 〒625-0133 京都府舞鶴市字平1584番地 |
電話番号 | 0773-68-0836 |
営業時間 | 9:00-17:00 (入館は16:30まで) |
休業日 | 毎週水曜日※及び年末年始(12月29日から翌年の1月1日まで) ※水曜日が祝祭日の場合、その後の直近の平日が休館日になります。 臨時休館: 令和6年12月1日(日)から令和7年1月15日(水)修繕工事、収蔵庫の燻蒸の為 |
料金 | 一般:400円 / 学生:150円 (団体割引あり) ※ただし、舞鶴市内在住、在学者の学生は無料 ・赤れんが博物館と引揚記念館の共通券があります(600円) ・身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳、戦傷病者手帳、被爆者健康手帳 をお持ちの方は半額 |
駐車場 | 有 |
トイレの有無 | 有 |
HP | https://m-hikiage-museum.jp/ |
SNS |
昭和45年(1970年)「岸壁の母」の舞台となった舞鶴引揚援護局跡地を見下ろす丘陵地に、引揚記念公園が整備されています。この公園内に、先ほどご紹介した舞鶴引揚記念館があります。公園駐車場の奥にある階段を登った先にある展望広場では、「平和の群像」や、「異国の丘」「岸壁の母」の歌詞を刻んだ歌碑などが静かに佇んでいます。展望台からは引揚桟橋やクレインブリッジなど、舞鶴湾の景色を一望できます。
引揚者たちは引揚船から小型船に乗り換えたあと、桟橋に上陸したと言われています。同時にここは、家族の帰りを待ち、海に向かって佇む妻や子らの後ろ姿が見られた場所でもありました。残念ながら当時の桟橋は残っておりませんが、この感動と平和の記憶を後世に残そうと、平成6年に復元されました。
※引揚記念館から引揚桟橋までは車で約3分、徒歩約20分
舞鶴引揚記念館では平和学習のためのプログラムが提供されています。引き揚げとシベリア抑留の史実を通した平和学習では、悲惨さの中にある当時の人々の希望や他者への思いやりを感じることで、実感をもって平和の尊さを学ぶことができます(所要時間90~120分)