時は1600年。天下分け目の「関ヶ原の合戦」の前哨戦として石田三成方一万五千の大軍が田辺城を攻めました。当時、城主・忠興をはじめ他所でいくつもの戦線を構えていた細川軍は田辺城を守るのに、忠興の父・幽斉率いるわずか五百人の兵で戦わねばなりませんでした。こうした圧倒的不利な戦況のなか、果たして幽斉はどのように立ち向かったのでしょうか?
細川幽斉は実の父が室町幕府第十二代将軍・足利義晴とも言われており、将軍家や公家と親密な関係にありました。また、戦国の世にあってすぐれた文人であり、和歌・連歌をはじめ太鼓・謡曲・乱舞・禅・料理・茶道・書道・鞠・有職故実にいたるまで、多彩な才能を発揮していました。なかでも三条西公枝から歌道の奥義を許された「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であり、その廃絶を後陽成天皇が憂慮されたことが、籠城の際の勅命講和につながったと思われます。
細川幽斉像(天授庵所蔵)
全国の大名が東軍・徳川家康方と、西軍・石田三成方に分かれて戦った関ヶ原の合戦。そのおよそ2か月前に起こったのが舞鶴・田辺城での籠城戦でした。徳川方についた細川忠興制圧をめざし、石田三成が一万五千の軍勢を集め田辺城に攻め込みます。この時、忠興は東軍の会津攻めに参加していて不在。他にも戦線を構えていた細川軍は、忠興の父・幽斉率いるわずか五百人の軍勢でこれを迎え撃たねばなりませんでした。圧倒的不利。その状況で幽斉がとった戦術は「籠城」でした。
およそ1か月半にわたる籠城戦は勝利はおろか援軍の見込みもなく、落城寸前にまで追い込まれます。しかし、田辺城制圧に参加していた石田軍の諸将の中には、幽斉を歌道の師として崇拝する者が少なくなく、城を攻め落とすことにためらいがありました。そこへ後陽成天皇の勅命が届けられます。後陽成天皇は歌道の達人である幽斉の討死を憂慮したのでした。天皇の勅命とあって西軍はただちに包囲を解き、およそ1か月半にわたる籠城が幕を下ろしたのでした。
田辺籠城図
田辺城資料館
平成4年に城門が完成。展示室では、細川幽斎を中心とした歴代城主や、城下町・田辺の歴史を紹介しています。また、彰古館では、「糸井文庫」の錦絵資料を展示しています。
お問い合わせ | 0773-76-7211 |
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吉原の漁村 集落湾や運河など、昔ながらの情緒のある漁師町
舞鶴は、江戸時代から北前船の寄港地として発展を遂げた、古くからの港まちです。とくに町の西側を流れる高野川河口に位置する竹屋町は大商人が多く居住し、藩内の商品流通を全国の市場へと結びつける、いわゆる交易拠点になっていました。竹屋町周辺には「在通い」と呼ばれる行商兼仲介のほか「丹波通い」「丹波・若州産物売買」など、さまざまな商人が行き来していました。また高野川沿いには各地から運ばれてきた産物を保管する蔵や倉庫がありました。こうした倉庫群が高野川に沿って、今も建ち並び、かつて北前船で栄えた当時の面影を今に残しています。
高野川倉庫群
城下町の風情を感じさせる古いお寺や神社がいっぱい
城下町の風情を感じさせる古いお寺や神社がいっぱい。 現在、人口約10万人以上の都市のおよそ半分以上は城下町を起源としています。しかし、戦災や都市開発などにより、往時を偲ぶことのできる城下町は少なくなっており、舞鶴の風情あふれるまちなみは、それ自体が魅力なのです。
円隆寺
奈良時代、行基が創建した寺で独創的な建築様式を有する。
西地区、愛宕山のふもとにたたずむ寺院。奈良時代に行基が建設されたと伝えられています。丹後大仏といわれる丈六仏などの重要な文化財も多く残しています。
お問い合わせ | 0773-75-1193 |
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朝代神社
西暦673年創建といわれる古社で吉原の太刀振りが行われる。
創建は古く、西暦673年。以来、舞鶴の歴史を見守ってきました。祭礼では4年に一度行われる吉原の太刀振りや神楽などが奉納。現在でも人々の信仰を多く集めています。
お問い合わせ | 0773-75-0132 |
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桂林寺
細川幽斉のため田辺城籠城戦に参戦。仏涅槃図や梵鐘を与えられた。
桂林寺は曹洞宗中本山の禅寺。田辺城籠城の際、桂林寺の僧侶・大渓和尚は、幽斉の長年にわたる恩顧に応えるべく、弟子14人を引き連れ、決死の覚悟で幽斉の軍に志願します。のちにこの勲功に対し、忠興は仏涅槃図や梵鐘を贈りました。室町時代に竺翁雄仙によって創建。中国の文化に影響を受けた諸堂が建ち並ぶ境内は、異国情緒にあふれ、魅力的です。
お問い合わせ | 0773-75-0168 |
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