田辺藩の城下町として栄えた趣のあるまちなみ。
現在でも田辺城跡としての佇まいを残し、歴史ある神社仏閣など数多くの史跡が残っています。
戦国武将であった細川幽斎ゆかりの桂林寺や、
レトロな商店街、
日本のヴェネツィアと言われる吉原入江など
多彩なまちなみを楽しんでみて!
「まいづる観光ステーション」は、西舞鶴駅の1階にあります。そこでは、観光案内、レンタサイクル、一時荷物預かりなどのサービスがあります。お土産販売もありますので、お帰りの際にもどうぞ。
舞鶴かまぼこや海軍カレーなど舞鶴ならではのお土産を各種取り揃えています。海上自衛隊グッズや丹鉄グッズも販売しており、限定のガチャガチャもご用意しています。
まいづる観光ステーションにレンタサイクルあります。カゴ付き24・26インチ、カゴ付き24インチ電動アシストの自転車があります。田辺城下町は坂道も少なく自転車で散策しやすい道路です。
明智光秀の盟友とされる細川藤孝〈幽斎〉は、戦国の武将でありながら優れた文人。和歌や太鼓、乱舞、料理、茶道ほか多彩な才能の持ち主でした。ここ田辺城跡の展示室では細川幽斎を中心とした歴代城主や、城下町・田辺の歴史を紹介しています。また、彰古館では、幽斎の生涯をパネルで紹介しています。城跡は現在舞鶴公園として広場や庭園があり、市民にも親しまれています。
昔にタイムスリップしたかのようなレトロな雰囲気の商店街。こちらにある「若の湯」は、創業は明治36年。現在の建物は大正12年に建てられ、レトロな建物やタイルは必見!また、浴場の壁面には、銭湯絵師、中島盛男さんの手による「富士山と天橋立」「赤富士」が描かれています。お湯は、名水百選に選ばれた真名井の清水を沸かしています。
桂林寺は、室町時代に竺翁雄仙によって創建されました。田辺城籠城の際、桂林寺の僧侶・大渓和尚は、幽斎の長年にわたる恩顧に応えるべく、弟子14人を引き連れ、決死の覚悟で幽斎の軍に志願します。のちにこの勲功に対し、息子の忠興は仏涅槃図や梵鐘を贈りました。中国の文化に影響を受けた諸堂が建ち並ぶ境内は、異国情緒にあふれ、魅力的です。
静かな運河の両脇に漁船が並ぶ風景。この風景が雑誌に載ったのを機に、近年は外国人観光客の方がカメラを手にたくさん訪れる撮影スポットになりました。路地裏は車1台が通れる程度の広さ。夕暮れには魚を焼く匂いが漂うような小さな町ですが、実は京都の近代漁業の発祥の地なのです。
文武両道の才覚を持った武将「細川藤孝」、のちの細川幽斎は、明智光秀の盟友としても知られ、大河ドラマ「麒麟がくる」でもその姿が描かれました。また幽斎の息子、細川忠興の妻は、光秀の娘、明智玉。のちの細川ガラシャです。
そのような深い関係にあった幽斎と光秀ですが、本能寺の変の後、状況は大きく変化。光秀は姻戚関係にあった幽斎と忠興に支援を要請しましたが、細川父子はこれを拒否。幽斎は剃髪して信長への追悼の意を表しました。本能寺の変、そして幽斎と光秀の関係は、非常に謎に包まれています。
以下では「当代随一の教養人」とも呼ばれた細川幽斎を語る上で欠かせないエピソードをご紹介します。
時は1600年。天下分け目の「関ヶ原の合戦」の前哨戦として西軍、石田三成方1万5千の大軍が田辺城を攻めました。
全国の大名が東軍、徳川家康方と、西軍、石田三成方に分かれて戦った関ヶ原の合戦。そのおよそ2か月前に起こったのが、この舞鶴・田辺城での籠城戦でした。徳川方についた細川忠興制圧をめざし、石田三成方が1万5千の軍勢を集め田辺城に攻め込みます。この時、息子の忠興は東軍の会津攻めに参加していて不在。他にも戦線を構えていた細川軍は、幽斎率いるわずか500人の軍勢でこれを迎え撃たねばなりませんでした。圧倒的不利。その状況で幽斎がとった戦術は「籠城」でした。
しかし、およそ2か月にわたる籠城戦は勝利はおろか援軍の見込みもなく、落城寸前にまで追い込まれます。こうした圧倒的不利な戦況のなか、最終的に西軍はその包囲を解く結果となります。一体何が起こったのでしょうか?
細川幽斎は実の父が室町幕府第12代将軍・足利義晴とも言われており、将軍家や公家と親密な関係にありました。また、戦国の世にあってすぐれた文人であり、和歌・連歌をはじめ太鼓・謡曲・乱舞・禅・料理・茶道・書道・鞠・有職故実にいたるまで、多彩な才能を発揮していました。なかでも三条西公枝から歌道の奥義を許された「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)だったのです。
田辺城制圧に参加していた西軍の諸将の中には、幽斎を歌道の師として崇拝する者が少なくなく、城を攻め落とすことにためらいがありました。そこへ後陽成天皇の勅命が届けられます。「もし幽斎がここで落命するようなことがあれば、古今集の秘伝は永久に絶えるであろう。すみやかに城の囲みを解くように。」天皇の勅命とあって西軍はただちに包囲を解き、およそ2か月にわたる籠城が幕を下ろしたのでした。
そして、その籠城線が幕を下ろしたのは、関ヶ原の戦いにおいて徳川勢勝利3日前のこと。もし、田辺城で釘づけにされた1万5千もの西軍の軍勢が関ヶ原の戦いに参戦できていたら、戦いは違った結末を迎え、歴史が大きく変わっていたかもしれません。